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リリアナ・ラベル

リリアナ ラベル コヨーテアグリーサルーン ファウンダー

コヨーテ・アグリーサルーンはアメリカで1番有名なバーであり、ロシアやドイツ、ウクライナにカナダ、ウェールズやメキシコなど、今では13ヶ国にも展開しています。

オリジナルのコヨーテ・アグリー・サルーンは1993年1月27日にニューヨークにて正式にオープンしました。

ラスベガス: 2001年11月
ニューオリンズ: 2002年1月
タンパ: 2003年4月
オースティン:2004年1月
パナマ市:2004年4月
サンアントニオ:2004年7月
ナッシュビル:2004年12月
デンバー:2005年3月
メンフィス:2006年5月
オクラホマシティ:2009年6月
デスティン:2013年4月
サンディエゴ:2014年2月
フォートワース:2016年にオープン

今日、リリアナはサンディエゴに息子と一緒に住んでいます。 彼女は彼女の会社であるUgly Inc.を経営していて、Coyote Uglyにふさわしい場所を探すため世界中を飛び回っていますが、ニューヨーク、フレンチクォーター、サンディエゴのバーで頻繁に見かけられます。 彼女はお客様にお会いできることを楽しみにしています。

Lil’s STORY

1週間に3回は「どうやってコヨーテアグリーを創業したのですか?」と質問されます。
コヨーテアグリーの誕生と発展は、数え切れない程の年月に及びます。
コヨーテアグリーの波乱万丈の誕生から現在に至るまで、少しだけお伝えしましょう!
これが私のストーリーです。

コヨーテアグリーの伝説は一人の女の子の夢と少しのワイルドターキーから始まりました。

私はニューヨーク・ニューロシェルの中流階級の中でも下級の家族の元で育ち、気取ったカトリック高校に通っていました。
そこでカトリック高校の女子学生がよく言われていることは事実だということが分かりました。
彼女達がお誕生日プレゼントでもらったBMWに乗っている姿が私の活力の源になりました。
その間私は学費を払うために仕事を掛け持ちしながら、自分の車67年型のフォルクスワーゲンにガソリンを入れる毎日でした。
驚かれるかもしれませんが、私は学校の修道女に好感をもっていました。
彼女達は私がなんでも達成できると信じさせてくれました。
私がバーの上で踊ったり、お客さんのお金を使い果たさせる事になるとは彼女たちにとって予想外だったと思いますが、今日までの成功は神様とニューヨーク・ニューロシェル・ウルスラ高校の修道女のおかげだと思っています。

高校卒業後はニューヨーク大学へ入学しましたが、残念ながら修道女達が居ないことにより大学時代は気を取られぎみになってしまいました。
次に私を正してくれたのは、トラビスイタリアンレストランのビリヤードが得意な店主でした。
彼は私にビリヤードのノウハウを教えてくれ、私は彼にバー業界でいかにして稼ぐかを教えることになったのです。
私はたかが17歳のウェートレスでしたが、どういうわけか稼ぐ方法を生まれながらの本能で知っていたのです。

最初のチャンスは、バーテンダーの一人が休暇の際に、代わりに入るよう頼まれたときでした。
私は数百の電話をかけ、プレミアバーテンディングナイトイベントに友達全員を呼びました。
かなり上手くいったため、その後週に3回のシフトに入ることができました。
(彼は休暇に行った事をきっと後悔しているでしょう)
これが全ての始まりでした。

それから…

段々慣れてきた頃にはドリンクを数杯飲んでから、ジュークボックスから流れる曲に合わせてバーの上で歌ったり、お客さんが飲むよう煽ったりしながら大金を稼いでいました。
あまりにも絶好調だったため、オーナーはキッチンを閉鎖し、リキュールのみ提供するバーへとリニューアルしたのです。

時が経つにつれ、私は数え切れない程の場所で働きました。
バーテンやウェートレス、電話で窓のセールス販売をしたこともありました。
(当時は本当に必死でした)
この頃私はまだ大学生で、学期ごとに専攻を替えていました。

ソーシャルワーカーとしてキャリアを考えたこともありましたが、成功するには修士号が必要だということが分かり、すぐさま予定を変更しました。
両親のモットーである“ちゃんとした仕事に就きなさい”は私の耳に何度もこだまし、それはパトカーのサイレン音のようでした。

そこで私はウォールストリートで働くことを決めましたが、株式仲買人の見習いになるには二つ問題があることが分かりました。
一つ目は見習いは全く稼げないということです。
(稼げないのは私の道徳的に反していることです)
二つ目は株式仲買人は必ずしも市場を熟知していることを求められないということです。
単にセールスマンとして力があればよいのです。
私はセールスマンとして長けていますが、株の銘柄選びには向いていませんでした。
収入不足であったため、生活のためにバーテンの掛け持ちをせざるを得ませんでした。
ウォールストリートで週250$稼ぐなか、バーテンはたった一夜で250$稼いでいました。
私が株式仲買人としてのキャリアを早めに引退することにしたのは何故かもうお分かりでしょう。

バーテンとして復活してからは居心地が良く、私の血管にはウィスキーが流れていました。
(私の肝臓の話はやめておきましょう)
当時働いていたバーはアナコンダスという名前でした。
このバーはブラジルをコンセプトにしていて、フローズンドリンクスペシャルが一押しでした。
バーテン経験者じゃないかぎり、あなたはきっとどれだけブレンドドリンクを作るのが大変か分からないでしょう。
ある時、作るのに時間がかかるブレンドドリンクである、うっとうしいフルーティードリンクを同時に何杯も作っていたら、都合良く電気のヒューズが飛んでしまうことがありました。
面倒なドリンクはもう作りたくないと思ったので、ヒューズが飛んだことを口実にその後はもうブレンダーを使いませんでした。

しばらくして、変化が必要になりました。
ちょうどその時、天からシャンパンが振ってきました。新たな幕開けです。
Village Idioという地元の安酒場のオーナーであるトミーがバーの前に立ち、今後の私の人生を変える仕事のオファーをしてきたのです。
もう少し正確に言い表すと、ウイスキーが天から降ってきたかのようでした。
トミーは酔っ払って立つのもままならない中、入り口ドアを足で支え、ドアの前にいたホームレスの男達は私が通る道をつくるために転がりました。
まさにここは私の居場所でした。そして、私は輝き始めたのです。

日中はおじさん達ばかりでしたが、日が沈むと音楽ガンガンで、私はバーの上にいました。
場内の女性一人残らず最低でも1ドリンクは手に持ち、私は毎日500$以上稼ぎました。
2ヶ月以内にトミーは私をマネージャーに昇進させ、私はさらに一生懸命働きました。
私は美女を雇い、彼女達に販売の方法を教え、なによりジュークボックスから流れるカントリーミュージックを熟知し良さを分かるようにと教えました。
週55時間以上は働き、1ダイムとも損はさせませんでした。

話が上手すぎるのは理解していたので、楽園にもそろそろ問題がやってくるだろうと思っていましたが、悪い予感は的中しました!
バーは閉店すると通りで噂になっていたのです。
そこで私は通りの向かいにある空き店舗を借りることにして、私は友人のトニーとパートナーシップを組みました。
さようなら、イタリアンレストラン!こんにちはコヨーテアグリー!

美女 + ブロンド = お金

トニーはバーを開店するためにあるだけのお金を使い果しましたが、バーで働く意欲はありませんでした。
彼は作家を目指していたのです。
私は彼に出資してもらい、バーを運営しました。

1993年1月27日にコヨーテアグリーサルーンは開店しました!
その後、たちまち成功を収め、私はようやく自分の店を持つことが出来たのです。
もうフローズンドリンクを作らなくてよいどころかブレンダーさえも購入しませんでした。
これからは自分の好きなようにすることができるのです!

お客さん:“ミドリサワーもらえますか?”
リリアナ:“ダメ!あなた馬鹿なリクエストをしたから、ワイルドターキーのショット、あなたと私二人分ね!”

そして気づいたのです!あの修道女達が言っていた『やりたいことは何でもやれる』ということがようやく分かりました。そして現実に私はやっているのです!
夜はバーの上で踊り、観客に歌い、私との飲み比べに参戦しない女々しい男を皆馬鹿にしました。
熟練したセールスマンとして、私は腕がとてもよかったのです。
今日に至るまでコヨーテアグリーを最初から知る人たちは、私が一番のバーテンダーだったと言います。私はここでビジネスプランを発展させ、今日まで辿り着くことができたのです。

私は女の子達が私の特技をパフォーマンスできるようにトレーニングし始めました。
ある人はダンスが上手く、ある人は歌が上手く、ある人は観客に大声をあげたり、お酒を飲むよう煽ったりするのに長けていました。
全ての特技を兼ね備えている女の子はごくわずかだったので、コンビネーションなどを考えるようにしました。
ダンスが上手い人とユーモアがあり大声をあげる人を組ませ、歌が上手い人にダンス練習をしてもらうなど工夫をしたら上手くいき始めました。

そして残りは歴史です。

数年後、私は自分のバーを完成させ、コヨーテアグリーサルーンはすぐにニューヨークで確立したものとなりました。
1997年に国民から大注目を浴びることになったきっかけは、エリザベス・ギルバート執筆によるGQマガジン「コヨーテアグリーサルーンの女神」が出版されたことがきっかけです。
イーストビレッジの小さなバーはたちまちスポットライトを浴びることになったのです。

その後まもなく、ハリウッドからオファーがあり、私のストーリーの著作権が売られることになりました。
コヨーテアグリーは2000年8月に開店、パイパーぺラーボ主演マリアベロ出演。
興行収入1億1000万ドル超の大ヒット映画となりました!
全世界の観客は“水は提供しません”のフレーズの意味が分かったのです。
安いテキーラをブーツから飲ませ、蛇とからみながらバーテンし、そしてとにかく好き放題やったのがコヨーテの素晴らしいところでした。

人生色々と変化がありましたが、今は自慢の息子と共にサンディエゴに住んでいます。

すべてのコヨーテアグリーサルーンは現在も変わらない使命を掲げています。
機転が利き、揺るがない確信、そしてあなたのお財布をからっぽにさせる能力が今日のコヨーテアグリーを作り上げました。

面白い話ですが、両親はいまだに大学の教育をいつ活用するんだ?と聞いてきます。
そこで私は大学の教育があったからこそ現在のビジネスの大成功を収め、私のバーについてテレビシリーズが放映されるまでになったと答えています。
20年経った今、コヨーテアグリーは誰もが知っているおなじみの名前になりました。
シスタージーン・バプティスありがとうね!(はたして彼女は映画を観てくれたかしら?)